504回 (2014.2.8

「一遍会史」の試み(一)黎明期 

〜相原熊太郎・北川淳一郎・佐々木安隆〜

三好  恭治(一遍会 理事)

                                            

 はじめに

一遍会(一遍上人奉賛会)は昭和四五年(1970)一月二三日、第一回例会を「一遍堂」にて開催した。平成二五年(2013)一〇月十二日、第五〇〇回例会を道後公民館(視聴覚教室)にて開催した。平成二七年(2015)には一遍会創立四五周年を迎えるに当り「一遍会史」を取りまとめて創立五〇周年への足固めをし、先達への心からの謝意を表するとともに、次世代の会員への橋渡しをしたいと願う。半世紀にわたり、縁あって一遍会に集い、事情あって離れていかれた数多くの会員の方々の有縁無縁のご支援に心から感謝申し上げる次第である。

 

一遍会誕生の萌芽

昭和一五年三月、宗祖「證誠大師」諡号宣下(公報三月二三日付)と翌一五年四月宗祖一遍上人六百五十年御遠忌が、時宗の現代への「再生」の契機であり、この動きに点火したのが『都新聞』(現・東京新聞)事業部長・相原熊太郎であった。彼は愛媛県出身で松山中学に学び東京帝国大学を卒業後ジャーナリストとして活躍した。相原は一遍上人奉賛会創設に直接には関与していないが、「種を播く人」として足跡を残していただいた大恩人である。

 

著述家・相原熊太郎の一遍顕彰の提言

【略歴】

 相原熊太郎は、明治一六年(1883)愛媛県にて出生(旧・温泉郡坂本村 現・松山市久谷町)。松山中学校で学び、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学哲学科を卒業。都新聞(現・東京新聞)入社、記者として活躍、整理部長・公益部長を歴任する。都新聞を退社後、「生活改善中央会」主事を勤め、昭和一四年(1939)「宗祖智真(一遍上人)洪業箚記」を発表する。

翌一五年、一遍上人に「證誠大師」号が宣下される。昭和二二年坂本村に帰郷、同村の戦死者の「鎮魂の皿」を制作し浄瑠璃寺に寄託し帰郷するが、爾来たびたび松山に来訪し、郷土史家や後年の一遍会創設時のメンバー(北川淳一郎、佐々木安隆、河野角太郎、一遍堂・新田兼市)と親交を深める。最晩年は盲目となり昭和五四年東京にて逝去(九七才 七月二五日没)。彼が一遍を顕彰した契機は、「郷土の生んだ宗祖一遍」ということもあるが、現役を引退して強まってきた郷土愛も無視できない。郷土愛の最大の贈り物が「鎮魂の皿」であった。

 

「宗祖智真(一遍上人)洪業箚記」

相原熊太郎の提言は昭和一四年二月一一日(紀元節)付で脱稿しているので構想はそれ以前に纏まっていた筈である。時代背景は「国民精神総動員」である。一〇章からなる。

一、宗祖自ら天下を周遊して伝道せること

二、宗祖私を滅し衆生利益につとめしこと

三、宗祖の衣食住を超越せること

四、忠君愛国のこと

五、敬神崇祖のこと

六、国語を尊重せること

七、民衆娯楽を建設せること

八、勤労奉仕につとめしこと

九、保険信仰行脚の創設者たること

十、結語

 

時流に沿った用語を使えば「滅私奉公」、「質素倹約」(贅沢は敵)、「忠君愛国」「敬神崇祖」「国文尊重」(和歌・和賛・道場誓文)、「大衆娯楽(踊念仏)」、「勤労奉仕(気比神社参道修築)」。「健康増進(時衆遊行)であり、まさに国策に合致した宗祖であり、一遍を顕彰すべきである。結語は「我等法孫は檀家信徒と共に、宗祖の私を滅して躬行せられたる典例に則り、現代所要の規綱にそひ以て聖代に生を享けたるを感謝しつゝ精進して、ひたすら皇猷に翼賛し奉らんことを期す。」である。

 翌昭和一五年三月、昭和天皇から宗祖一遍に「證誠大師」諡号宣下され、相原熊太郎は本山(遊行寺)での祝典に列席している。

 

北川淳一郎著『一遍上人伝』出版

 大政翼賛会による『一遍上人伝』は昭和一七年(1941)に出版された。著者は、旧制松山高等学校教授であった北川淳一郎である。北川は昭和四五年一遍奉賛会設立時に理事となり第一回例会で「別府の史蹟」のテーマで講演している。

【略歴】

北川淳一郎は、明治二四年(1891)温泉郡三内村(現・東予市川内)にて出生。松山中学校に学び、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業、内務省に入省。大正八年(1919)松山高等学校の新設に伴い教授となり、昭和二二年「公職追放」により退職。追放解除後、松山商科大学(現・松山大学)教授、晩年は石手寺総代、一遍奉賛会理事就任。昭和四七年逝去。(八二才 三月七日没)

昭和三年、松山仏教青年会を設立、宗教関連書を執筆している。昭和一五年、宗祖一遍上人六百五十年御遠忌の宝厳寺での講演で一遍を知り、『一遍上人語録』を読み一遍に傾倒し『一遍上人伝』を執筆した。愛媛県下の文化人にとっては初めて一遍の啓蒙書であり解説書であった。

 内容は(1)一遍成道(2)一遍涅槃の構成である。末尾の一節を載せておく。

「日本仏教よ、先ず須らく捨聖一遍の芳躅を学べ。全国幾萬幾十万の寺院よ、僧侶よ、檀信徒よ、もう一度一遍の昔にかへって、すべてを新しく出発しなほさうではないか。そして、相ともに大法を宣揚し、先づ大東亜に。果ては全世界二十億の群生をして本地の風光を光被せしめやうではないか。南無一遍證誠大師」

 

一遍会初代会長 佐々木安隆の人間教育

 一遍会初代会長になる佐々木安隆は、時系列では、相原熊太郎、北川淳一郎についで三番目に登場するが、三人が同じ席に揃ったのは、昭和三五年、一遍堂の新田兼市が設営した懇親会である。この席には、宝厳寺住職 長浜秀道師も同席している。懇談の内容は記録に残っていない。尚、相原と北川は昭和二九年、坂本公民館で開催された伊予史談会で講師として参画している。

相原と佐々木の「出会い」は不明であるが、昭和三五年の佐々木の著書『証誠大師 一遍上人』の序は相原熊太郎が書き、付録に相原熊太郎「宗祖智真(一遍上人)洪業剳記」を掲載している。また佐々木の自序で相原熊太郎へ謝辞を寄せている。「一遍」を通して二人の交流は深まってと考えられる

「小著の刊行に当り、多数先輩の文献を参考にさせていただいたり、助言や指導を受けたことに対し、ここに厚く謝意を表します。特に相原熊太郎先生の校閲をいただいたことは本書に千鈞を加えたものであり、謹んで御礼申し上げます。」

 昭和三五年の相原・北川・佐々木・長浜師の懇談は、一遍会(一遍奉賛会)誕生を運命づけた歴史的な一夕であった。

【略歴】

 佐々木安隆は明治三三年(1900)、伊予郡砥部町川登(現・伊予市)にて出生。松山中学校に学び、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学英法律科卒業。東京都電気局に採用され、昭和一八年七月から一九年六月まで東京都向島区長(現・墨田区)。同年一〇月に松山に帰住し愛媛県経済会戦力部(次長)勤務。二〇年三月には、一年前までの勤務先である東京で大空襲があり死亡八万人、被災者一〇〇万人に達する。

 心の傷も深く、昭和二二年に拓川学園(幼稚園)を創設、昭和三三年には全日本教育父母会設立と共に県支部長として偏向教育の是正に参画する。四八年には自主憲法制定愛媛県民会議議長に就任する。拓川学園(幼稚園)は聖カタリナ学園が吸収して「ロザリオ幼稚園」となったが、和気・大山寺幼稚園の園長として情熱を注ぐ。

一方、昭和四五年(1970)には一遍上人奉賛会を創設し会長に就任し、五三年には文化団体「一遍会」に改組する。五五年二月一遍会例会直後に急逝する。戒名は「瑞嶺院超脱玄隆居士」で、宝厳寺の墓地で眠る。(八一才 二月九日没)

[参考資料]

禰宜田修然・高野修『遊行・藤沢上人歴代上人史』―時宗七百年史―』(松秀寺 1989) 

長島尚通外編『清浄光寺』(遊行寺 2007

相原熊太郎『宗祖智真(一遍上人)洪業箚記』(1939) 

土方正巳『都新聞史』(日本図書センター 1991

北川淳一郎『一遍上人伝』(1942

北川淳一郎『読書彷徨』(1973

佐々木安隆『証誠大師一遍上人』(1960

『愛媛県史  教育』(愛媛県 1986

『愛媛県百科大事典』(愛媛新聞社 1985

「一遍会報」(自 昭和五三年三月第1号〜至 平成二六年二月第359号)

(注)戦時下の時宗、特に国民総動員法施行と時宗の対応については頁数の関係で割愛します。